2013年8月24日土曜日

結果としての安全

人々が安全を口にするとき、そこには2種類の安全があります。結果としての安全と前提としての安全です。この端的な例が、原発の安全について議論すると必ず出てきます。福島原発事故のおかげで、原発が安全だというのは単なる約束にすぎず、この約束が破られる事があると我々は知りました。国民は結果として原発は安全ではないと知ったので、大半は原発の利用をやめたいと思っています。結果としての安全を保証することは誰にもできない以上、他に代替手段のある原発をやめることで、結果としての安全を得ようとしています。ところが、地方自治体は政府に結果としての安全を求め、政府はそれを電力会社に言わせようとし、電力会社はこれを原子力規制委員会に押し付けています。原子力規制委員会は前提としての安全しか議論できません。事故にいたるシナリオを考え、そのシナリオを回避する規制を考え、電力会社にその規制を守る約束をさせるだけです。出口での安全を求める国民と入り口での安全しか考えない政府とでは、議論が平行線をたどっています。もちろん結果として安全でない物は他にもあります。例えば飛行機、船、車、電車といった交通手段です。これらは利用者が値段と利益と安全のバランスを選ぶ事ができます。ところが電力の場合、利用者にそうした選択権がありません。原発は過酷事故を起こした場合の被害がとても大きいので、人口密集地には作れません。もし結果として安全な物なら、電力の消費地である東京に作ればいいのです。高層ビルもスカイツリーも作れるならば、東京に原発を作れない技術的な理由はありません。結果としての安全が得られないのに、前提としての安全を唱えるだけの政府に国民の大半は失望しています。結果としての安全を求めるならば、原発を順次減らしていくのが現実的な妥協点でしょう。40年経過した原子炉は廃炉にして、もう新しい原子炉は作らない。これで近い将来原発はゼロになります。地震と津波が多いうえ事故のとき逃げ場がない日本では、もはや原発は危険すぎるエネルギー源となったのです。

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