2011年11月27日日曜日

安全と安心

安全と安心は違います。安全は科学が数値に基づいて決めるもの。安心は不安要素が無いことで生まれる心の状態。安全でも安心できないのが今の日本の農作物で、安心だけど安全でないのが日本の稼働中の原発となります。科学者はデータに基づいてあるものが安全かどうかをある確率で決めます。農作物の全数検査が時間的に不可能なのでサンプル検査で放射能を測る場合、ばらつきを仮定した上でサンプル検査による漏れの割合がサンプル数から分かります。そこから例えば90%の確率で玄米の放射能は500ベクレル未満などと推定します。この場合無作為に選んだ米の90%は500ベクレル未満ということです。残り10%は500ベクレルを上回る可能性があります。サンプル検査である以上確率を100%にすることはできません。だから本当に知りたいのは検査値の分布でありサンプルの取り方です。これが公表されないまま、サンプルからは放射能が500ベクレル未満でした、と言われてもそれが何を意味する数値なのか分かりません。検査値の生データをエクセルファイルなどで出してくれないと分布が分かりません。サンプルの取り方はもっと大事で、農家ごとに取るのか、田んぼの場所ごとに取るのか、また田んぼのどこで取るのか、端で取るのなら水が流れ込む上流側で取るのか下流側で取るのか、さらに山裾の田んぼをサンプルに入れるのか入れないのかなどで検査結果が変わってきます。これらを無視して発表された結果だけを見ると簡単に誤解します。福島県知事が福島県産米の安全宣言をした後で500ベクレルを上回る玄米が見つかって、農家もさぞ困惑していると思います。どんな安全宣言にも暗黙の前提があり、その前提が間違っている可能性も考えて食品を選ぶのが正しい自己責任のあり方です。究極の安心を得るには、消費者が自分ですべての食品のベクレル値を測る必要があります。それが福島原発事故後の日本の新たな常識です。

2011年11月7日月曜日

原発の事故確率

福島原発の炉心溶融事故をふまえて、原発の事故確率の見直しが行われました。ざっと500年に1回という割合は、日本にある原子炉ひとつひとつの稼働年数の合計が1494年(原子炉が50個あるとして平均で原子炉ひとつあたり29年)で、そのうち3個の原子炉が事故を起こしたので、3割る1494年でほぼ500年分の1になります。つまりひとつの原子炉が事故を起こす確率は500年に1回です。日本には稼働できる原子炉が50個近くあるので、日本で炉心溶融事故が起きる確率は単純に計算するとこの50倍になり、平均稼働率が100%なら10年に1回、50%なら20年に1回は日本のどこかで炉心溶融事故が起きることになります。日本だけの計算なので母集団が小さく、統計的にはあまり確実でない数値かもしれませんが、意外に大きな確率になります。今まで日本では原子炉溶融事故は起きないと言っていたので、母集団を安易に海外に広げることができません。10年から20年に1回放射性物質が大量にまき散らされ、その周りの人が何十年も避難する必要があるとしたら、日本で人が住める所は100年以内に消失してしまいます。本当にこんな危険な技術を使い続けるのですか。福島原発から来た放射性物質は栃木、群馬、埼玉、東京、千葉、茨城、神奈川、そして静岡まで汚染しました。もし原発稼働の是非を住民に問うなら、地元だけでなく事故で影響を受けるこうした周りの都道府県の住人にまで問うべきでしょう。もしこの確率で事故が起きるとしたら、原発事故が日本を滅ぼすことになりかねません。事故の原因が地震か津波かに関係なく、現実として日本の原発の事故確率はとても高いのです。日本の人は、それでも原発を使い続けますか。

2011年11月6日日曜日

文系と理系

日本では、ある人が文系や理系かという分け方をします。これはおそらく大学教育での学部の分け方から来ているのでしょう。物事を二つに分ける考え方は他にもあり、善と悪、上と下、敵と味方など相容れないものを対比するのによく使われます。先日スティーブ・ジョブスの伝記を読んでいたら、「humanitiesとsciences」の交差点に立てる人、という言葉にぶつかりました。これは本の序章にあり日本語ではどう表現しているかなとみたら「文系と理系」となっていました。これは残念です。他に簡単な日本語が無いのでこうした表現になったのだと推測しますが、もし「文系と理系」を相容れないものと考えると交差点はありません。そもそも日本の「文系と理系」という分け方に無理があります。マサが訳すとしたら「人文学と科学」にすると思います。両者は対立する概念ではなく、直交する概念だからです。誰でも簡単に使えるパソコンを作ることは、「文系と理系」という概念とは関係ありません。実は教育を「文系と理系」のどちらかに分けることにはあまり意味がありません。「文系と理系」という単純な分け方がもはや通用しないほど、世の中は複雑になっているからです。アメリカで例えばUCLAの学部は「Humanities、Life Sciences、Physical Sciences、Social Sciences」に分けられています 。Humanitiesは人間活動についての学問なので、文学の他に言語学や芸術史、宗教や哲学も含みます。でも心理学や経済学は含みません。心理学はLife Sciencesに属し、経済学はSocial Sciencesに属します。物理や化学はPhysical Sciencesです。芸術や法律はさらに別の学部となっています。日本の「文系と理系」という単純な分け方は現代には通用しないので、使うのは止めた方が良いとマサは思います。